これは、私が過去5 年ほどYogaJayaで教えてきたヨガ哲学の講座に基づいた今後の一連の記事の最初のものです。
序文として、この哲学の講座を受講したヨガジャヤのTT卒業生の一人からのコメントをシェアしたいと思います。
「yogaには流派があるものの、ヨガを教える立場にあるということは、patanjaliのyoga sutraを自身の経典として大事に持っておくことだという思い込みがあったので、 その考えのベースが崩されたのがとても衝撃的だった。 どの流派に所属するべきという話は一切なく、全体を見渡せるように知識を授けてもらえたのが良かったと思う。おかげで自分の今の立ち位置がわかり、そこから新たに選び直すことができると思った。正解はなく、この時代のこの考え方だとこうだ、というようにいろいろな考え方を学べたので、かなり自分の視野が広がったと感じる。 TTの学びとは関係のない日常生活においても視野が広がったなと感じる場面があり、自分に変化を与えてくれたのでとても大きな学びでした。」
このコメントで気に入っているのは、多くの現代のヨガ講師に共通するスタンスを捉えていることと、そして、さまざまなアイデアの概要を中立的な方法で提示されると、人々が見方を変え、自分の立ち位置を見つけることができることを示しているのです。
いわゆる「ヨガ哲学」がパタンジャリの 八支則と同一視される傾向。体と心のバランスの取れた状態を見つけるためのツールとしてアーサナの練習をする前に良い人になることを目指す必要がある(アーサナの前にヤマとニヤマを)という考えがインドの賢者の最大の知恵としてみなされている事実。このようなことに出会うたびに、切ない気持ちになるのです。こんな現実に応えて、この哲学の講座を発展してきたのです。
以下は上記のビデオのブログ版です。 (ビデオの脚本:アーシャ、ナレーション:里子)
ヨガの哲学とは?
まず始めに、ここでは「ヨガの哲学」を学ぶのではなく、「ヨガ」という言葉を分類上の区分として理解しようと試みることが主な目的であるとしましょう。
この場合、「ヨガ」と呼ばれるものは、どのようなものでしょう?
「ヨガ」とは何なのでしょう?
すでに東洋哲学に深い関心を持っている場合や、このテーマに関して学術的に学んだ場合を除き、インド以外の国にいる人が「ヨガ哲学」について学びたいと思うようになる最も可能性の高い系譜は、ヨガのクラスを受けた後でしょう。すなわちアーサナ、場合によってはプラナヤマや瞑想を体験した後です。
この「古代インドの練習」についてもっと知りたいと思うかもしれませんし、このような「ヨガ哲学」と言われていることを勉強することが必要となるヨガのティーチャートレーニングを受講するかもしれません。
現時点では、大半のインターネット情報や大半のティーチャートレーニングは、非常にシンプルで説得力のある物語を提供しています。
ヨガは、単なる運動ではない!
/ ここからは、スピリチュアルな音楽をかけ、アロマキャンドルを灯し、柔らかい声で続けましょう /
地元のヨガスタジオで行うこのヨガの練習は単なる運動ではなく、
「ヨガスートラ」と呼ばれるインドの原本にさかのぼることができるものであると。
この原本はインドの賢者パタンジャリによって書かれたため、「パタンジャラ ヨガ」とも呼ばれ、ヨガが単なるアーサナではなく 八支則からなる複雑なシステムであり、
最初の2支則は倫理的な順守、
三つ目の支則はアーサナ、肉体的な練習、
そしてこれらの頂点にサマーディという、ある種の超越的な状態があると。
同時に、ヨガは体とマインドのバランスと融合に関するものであるという一般的な考えがあるため、この最終的な超越的な段階であるサマーディは、バランス、幸福、心の安らぎ、体とマインドの融合であると想像しやすいのです。
/ ここで、音楽を止め、キャンドルを吹き消し(←隠喩、わかりますか?)、通常の声で読み続けましょう /
真実の度合い
このような印象は大変のインターネット情報検索者やヨガの練習者を満たし、広がり、数多くの情報源や人々が同じ視点を共有するため、それを真実だと思うようになるのです。また、多くの人々が真実であると信じているため、ある意味では真実なのです。
しかしながら、この印象は極めて限定的であり、歴史の中でのヨガの多くの形態の発展と多様性を捉えていないのです。このような観点から、ここからは、この極めて限定的でありながらも幅広く共有されている視点に集中するのではなく、むしろ全体像をみていきます。
/ つづく /